城,神社寺巡り

【世界遺産】吉水神社の魅力 ~義経・後醍醐天皇・秀吉の足跡と「一目千本桜」

奈良県の中部に位置する吉野山は、桜の名所として広く知られています。

ここには修験道の総本山である金峯山寺(きんぷせんじ)があり、古来より歴史の舞台として幾度も登場してきました。

今回は、吉野山にある吉水神社(𠮷水神社/よしみずじんじゃ)に刻まれた歴史を紹介します。

吉野山の象徴ともいえる金峯山寺蔵王堂

近鉄吉野駅から、現存最古とされるロープウェイで5分ほど山に登り、山上駅からメインの道路を東に進むと、金峯山寺(きんぷせんじ)の総門である黒門があります。

さらに10分ほど歩くと、蔵王堂に到着します。

画像:金峯山寺の総門 筆者撮影

吉野山から山上ヶ岳にかけての一帯は、古くから「金峯山(きんぷせん)」と呼ばれ、古代より広く知られた聖域でした。

白鳳時代(飛鳥時代末期から奈良時代初期頃)、修験道の開祖とされる役行者(えんのぎょうじゃ)が、山上ヶ岳で千日間の修行を行い、その際に金剛蔵王大権現を感得したと伝えられています。

画像 : 役行者像(鎌倉時代・1300〜1375年頃)
Wmpearl CC0

役行者はその御姿をヤマザクラの木に刻み、山上ヶ岳と吉野山にお祀りし、これをもって金峯山寺の開山となりました。

以来、金峯山寺は皇族・貴族から一般庶民まで、幅広く崇敬を受け続けています。

現在の蔵王堂は、国宝であり、また世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産にも登録されています。

建物はたびたび焼失と再建を繰り返し、現在の姿は文禄元年(1592年)に再建されたものです。
檜皮葺の屋根を備え、正面五間・側面六間、高さ約34メートルを誇る堂々たる木造建築で、国内でも有数の規模を誇ります。

堂内には高さ約7メートルの秘仏・金剛蔵王大権現の尊像三体が、日本最大級の厨子に安置されています。

画像:金峯山寺蔵王堂 筆者撮影

吉水神社の概要

先に紹介した金峯山寺蔵王堂を過ぎ、さらに東に進み、東南院の近くから少し谷側に入ったところに、吉水神社(𠮷水神社)があります。

画像:吉水神社の門 筆者撮影

この神社は、もとは「吉水院(よしみずいん)」と称し、白鳳年間、天武天皇の時代に役行者によって創建された修験僧の僧坊でした。

その後、長い歴史の中で源義経や後醍醐天皇など多くの歴史的出来事の舞台となりましたが、明治時代の神仏分離令により、明治8年(1875年)に「吉水神社」と改称され、現在に至ります。

画像:吉水神社の書院と拝殿 筆者撮影

源義経が隠れ住んだ吉水院

文治元年(1185年)12月、兄・源頼朝の追討を受けた源義経は、静御前や武蔵坊弁慶らと共に吉野山へ逃れ、この地の吉水院に5日間身を潜めたと伝えられています。

ここで義経と静御前は最後の別れを惜しみ、義経は弁慶らと共に奥州を目指して落ち延びていきました。

画像 : 義経と静御前。周延「源平盛衰記」public domain

吉水神社には、義経が逃避行の際に身に着けた山伏の装束や、武具などの遺品が今日まで大切に保管されています。

さらに、義経と静御前が過ごした部屋は、書院内に「潜居の間(せんきょのま)」として現存しています。

また、この別れに際して静御前が詠んだとされる歌が残されています。

「吉野山 峯の白雪踏み分けて 入りにし人の跡ぞ恋しき」

南朝の後醍醐天皇の御座所であった吉水院

画像:後醍醐天皇御像 public domain

時代が下り延元元年(1336年)、後醍醐天皇は京都・花山院から秘かに吉野へ行幸され、吉水宗信法印(そうしんほういん)の援護を受けて、吉水院を南朝の皇居と定められました。

ここを拠点として南朝四代・五十七年に及ぶ歴史が始まり、吉水院は現存する唯一の南朝行宮(あんぐう)として知られています。

書院内には、当時の「後醍醐天皇玉座の間」が残されており、南朝の歴史を今に伝える貴重な遺構となっています。

豊臣秀吉が花見の本陣とした吉水院

画像 : 豊臣秀吉坐像(狩野随川作)public domain

さらに時代が下った文禄3年(1594年)、天下統一を果たした豊臣秀吉は、その権勢を天下に示すため、吉野山で盛大な花見の宴を催しました。

その際、吉水院を本陣とし、約5日間にわたって滞在したと伝えられています。

滞在中、秀吉は歌会・茶会・能の会を盛大に開催したほか、後醍醐天皇玉座の間の修繕や庭園の設計にも関与しました。

この太閤花見の際に使用された道具や宝物は、吉水院に寄贈され、今日までそれが保存されています。

「一目千本桜」

吉水神社の境内には、「一目千本(ひとめせんぼん)」と呼ばれる桜の絶景スポットがあります。

ここからは中千本と上千本の山桜を一望でき、その景観は息をのむ美しさです。

この「一目千本」は別名「一目十年(ひとめじゅうねん)」とも呼ばれ、「一目見ると、十年長生きできる」という言い伝えが残されています。

文禄3年(1594年)に花見の宴を催した豊臣秀吉も、この風景に感嘆したのだろうと推察されます。

画像:吉水神社の一目千本からの桜の眺望 筆者撮影

吉野山の桜

吉野山には、シロヤマザクラを中心に約200種・およそ3万本もの桜が群生しており、春になると山全体が淡い色彩に包まれます。

シロヤマザクラの花はソメイヨシノよりも小ぶりで白く、花と同時に茶色の新芽が出るため、遠景では淡紅から濃い桃色までグラデーションのように見えるのが特徴です。

吉野山に桜が多い由来は、役行者が金剛蔵王大権現を感得した際、その御姿をヤマザクラの木に刻み祀ったことに始まると伝えられています。

以後、山桜は神聖な木とされ、献木が続けられたことで、現在の「桜の吉野山」が形づくられたのです。

吉水神社は、白鳳の創建以来、義経・後醍醐天皇・秀吉といった歴史上の人物たちの足跡を伝えるとともに、吉野山の自然美を象徴する存在です。

歴史と絶景の両面を楽しめるこの地は、まさに吉野の魅力を凝縮した特別な場所といえるでしょう。

参考 : 『吉水神社公式サイト』他
文:撮影 / 草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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